家伝によれば関ヶ原の戦い(1600)の後、旧柳河藩に仕え、その後、柳川藩御典医を勤めた推慶が小保に居を構えたそうです。正面に本瓦葺の玄関を付し、侍身分の家柄にふさわしい堂々とした構えを見せています。
玄関基股は旧吉原家と同形式、小屋組みも貫で固めるので、天保期の建築と考えられます。昭和初めまで表門と中門を構え、表通りの石垣三段目より板塀がありました。
小保の町並みを構成する重要な建築遺構として貴重です。
主屋の屋根勾配が急で棟高は約9mと小保町の通りでは最も高く、大型町屋のスタイルをとっています。別棟の離れ座敷は棟門と式台玄関を構えた屋敷造りとなっています。建築年代については、角屋玄関の蟇股の墨書の銘から天保9年であることが判明しています。母屋はそれ以前の建築で家伝の18世紀末と推定されています。丸太を組み合わせた主屋屋根裏の小屋組の構造を見ると、江戸時代の建築技術の晴らしさが伺えます。本家の吉原家より分家された当時、造り酒屋でしたがその後、傘屋になりました。現在の住宅は、平成6年に平成3年9月の台風により被害を受けた屋根瓦の全面葺替えを行うとともに、町並み保存の見地からほぼ旧状どおりに修復されました。
この石列は、藩境石と言い伝えられています。江戸時代の榎津・小保地区は久留米藩と柳河藩の藩境に位置し、港町や宿場として栄えていました。
現在、石柱は28本残っています。石柱は石質や大きさが異なっていますが同じ間隔で2箇所に穴があけられています。この穴には横木が通されていたと言われています。石列が作られた年代は不明ですが、文化8年(1812)測量のため、この地に立ち寄った伊能忠敬の測量日記に「右八幡宮、左側 久留米柳河境石」とあります。この他、宝暦9年(1759)の「小保町絵図」の中に描かれており、18世紀中頃には石列があったことがわかっています。